1.八坂神社の起源/江戸崎祇園祭の起源
「広報えどさき」349号より.1987年7月
八坂神社と祇園祭の起源八坂神社(京都)は、もと東山の山麓、八坂郷の古い鎮守社で高句麗系の

帰化人、八坂氏の氏神であり、祭神は素戔鳴尊である。

素戔鳴尊を祇園精舎の守護神である牛頭天王に比定して、祇園社は牛頭天王、祇園天神、武塔天神

などとよばれた。祇園精舎の守護神とされる牛頭天王は、印度九相国、吉祥国の王で、非常に荒神

であったため、わが国では素戔鳴尊と習合され、京都八坂神社の祭神とされたものである。

祇園祭は、京都八坂神社の祭礼で、葵祭、時代祭と共に、京都三大祭りの一つで、毎年7 月17 日の

神幸祭に美しい山鉾の巡行があるので名高い。

その縁起は、清和天皇の貞観11年(869 )天下に疫病が流行したとき、社司ト部良麿は勅命で、

6 月7 日、日本の国の数に準じ、長さ2丈(約6m )の鉾66 本を立て、この月の14 日に、洛中の男

と洛外の農夫を率いて御輿を「神泉苑」に送って祭り、疫病退散を祈った。

これを「祇園御霊会」といい、今日の鉾や御輿の巡幸の始めとされ、以来疫病流行ごとに奉幣祈祷が

されたが、円融天皇の天禄元年(970 )から、6 月17日を定日として毎年実施されるようになった。

その後、幾多の変遷を経て現在に至っており、八坂神社が各地に勧請されるにつれて、祇園祭もこれ

にならい全国的に実施されるようになった。

江戸崎祇園祭の起源明和7 年(1770 )清心庵の「江戸崎與誌」に下記のようなことが記載されている。

「江戸崎與誌」より

其節、大宿羽生田常喜、甚右衛門諸共(もろどもに)信心して、当村鎮守にと御輿を作り、

6 月27 日を祭礼日に定め、本町、戸張町当所の始也(なる)に仍而(よって)、年替に

当番して祭礼の殿持仕来り、其後、寛文年中羽生田甚兵衛、石井甚右衛門、本町、戸張町

皆同意して、今の御輿を新に改め作拵(つくりこしらえ)、享保8 年迄に58 年に相成零落

破損して見苦敷故(みぐるしきゆえ)、享保8 年本町大久保治郎兵衛、幸(さいわい)

当番に当り候間(そうろうあいだ)為信心思い立、名主鈴木彦左衛門、梅沢宇平次相談の上、

当町の皆々、他町にても信心の輩(ともがら)を進め、人総て御輿並金もの其他獅子、

指樽(酒を入れる樽)、きゃ立等に至迄諸道具不残(のこらず)、瑞祥院客殿に於て彩色

仕上げし者也。5 月17 日始め6 月19 日成就、享保8 卯年6 月吉日写

天王当番  大久保治郎兵衛

殿 持 鈴木彦左衛門(名主)梅沢宇平次(名主)


なお、町史編さんの仕事に関連して、大念寺にある古文書を調査中、安政4年(1857)6月26日付
の日鑑(日記)に、次のような記事がある。

「天王様御祭礼当年者惣普請出来ミコシモ新調ニ付当山門前ニ而相休」云々。また、「茨城県神社誌」

の八坂神社の項に、「天正年中の創立で、牛頭天王と尊称、鎮座地を信太郡
天王村と呼んだ。 

元和年中社殿焼失して詳細不明であるが、社伝に天正年中6 月、木村某「たわめき」の流れに網を打った

ところ、一天拵かにかき曇り、水中放火ただならぬことに驚き、早速揚げたら現に崇敬する神霊
であった。

真菰に包み奉戴帰宅の途中、豪雨流れるが如し、家迄戻れず「やけぼう」にかけこんだ。

三昼夜雷電止まず、早速天王の社地に仮宮を設けて奉斉した。

以上、限られた資料ではあるが、

(1)江戸崎の祇園祭は約400 年前の天正年代にはじまったこと。

(2)本町と戸張町が交互に当番を勤めてきたこと。

(3)現在使用されている御輿は、約130 年前の安政4 年 に造られたこと。

(明治26 年に化粧直しをしている記録あり)などがわかります。                                                      

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